私とあなたは、全く違う世界で生きている可能性も否めない。

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北欧映画の一週間”Tokyo Northern Lights Festival 2017″が今年も開催されています。といっても本稿を公開する2月17日が最終日となってしまうのですが、ジャパンプレミアや先行上映などがたくさんあり、北欧&映画好きにはたまらないシネマウィークとなりました。

私は初日の2月11日に当日券の列に並んで2本観てきました。(楽しみにしていたのに前売券を入手しこねてしまっていたのでした。)『サーミの血』と『アダムズアップル』。それぞれフィンランドとデンマークの作品です。『サーミの血」はとても深く胸に刺さって、これは改めてフィンランドの歴史を学ばなくてはならないと思いました。もっと知りたい。まだまだ鑑賞後の傷跡が生々しいので、おいそれと口に出すのははばかられます。なので、今回はもう一本の方について語ります。

メルマガで度々こぼしてしまっていますが、個人的にデンマークの俳優マッツ・ミケルセンさんの大ファンで、『アダムズアップル』を大画面で観られるのが本当に心からうれしい。

描くことは向き合うこと

※映画の画像は載せられないので自分で描きました。描くことは向き合うこと。線一本ごとに愛をこめて。

マッツ演じる神父は、一見マトモでポジティブで敬虔に見える。その実、全然違うものを見ている「異星人」だ。アダムが「現実を見ろ!」と怒るのもよくわかる。神父は、必死で築いた虚構の中で怯えながら生きていて、現実では脆く弱い。そんな恐ろしくも面倒な人物なのに、愛おしさを掻き立たせてくる。これが俳優マッツ・ミケルセンの唯一無二の魅力。だからマッツは様々な作品で一癖も二癖もある悪役や変人として、ボコボコに殴られたり、サイコパスとして拘束されたりする。

 

でもそもそも、私たちはそれぞれオンリーワンの、異なる身体で生きているので、同じ景色を見ていても頭の中の像は全く異なっているのかもしれない。私とあなたは、それぞれまったく違う世界で暮らしているのかもしれない。それの真偽は、少なくとも現代ではわからない。「そうかもしれない」と可能性を頭の隅に置きながら、その不気味さにはフタをして生きていく。「ふつう」とは、暫時的な取り決めにすぎない。

そしてまた、この作品は、「わかのわからないものをどう引き受けるか?」という問いでもある。かつてアーティストの島袋道浩氏が作品としていたテーマで、つくづく私はこれに深く影響を受けているなと思うのですが、そもそも全く違う人間同士が関わり生きていく上で、これは根源的なテーマ。他者と生きていく限り必ず生まれる問いであり、なにがしかの答えを出さないといけないもの。アダムは神父をまるごと引き受けることに決めた。それが彼の、問いへの答えであり、私たちは安堵し幸せな気持ちで劇場を出ることができた。

大学の頃よく考えて、議論をかわしていたことを、久しぶりにじっくり考えるキッカケとなった夜でした。今年はこういう時間を増やしていこうと思っています。

トーキョーノーザンライツフェスティバル